ブルックリン・ドジャース
日本のプロ野球は、横浜DeNAベイスターズが26年ぶりの日本一を下剋上(シーズン3位からの成り上がり)で達成しました。
海の向こうでは、大谷翔平選手が所属しているロサンゼルス・ドジャースが、ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズを制し、ワールドチャンピオンになりました。
私、ブログ担当大臣の職員Aはヤンキースファンなので多少複雑な気持ちです。
でも、北海道日本ハムファイターズのファンでもあるので、そのOBである大谷翔平選手の活躍はうれしいです。
さて、ドジャースと言えば、この話をしなければなりません。
ドジャースが今のアメリカ西海岸ロサンゼルスに本拠地を置く前は、東海岸ニューヨークのブルックリンが本拠地だったことはご存じでしょうか?
そもそも、ニューヨークはニューヨーク州最大の都市で、ブロンクス、ブルックリン、マンハッタン、クイーンズ、スタテンアイランドという5つの行政区に分けられます。
よく観光客が訪れる、タイムズスクエアやエンパイア・ステート・ビルディング、自由の女神像があるのはマンハッタンです。
ニューヨーク・ヤンキースの本拠地ヤンキー・スタジアムは、マンハッタンの北にあるブロンクスにあります。
ブルックリンにドジャースがいたことを知るオールドファンにとっては、ドジャース対ヤンキースは、ニューヨーク対決なんですね。
ドジャースがまだブルックリン・ドジャースだった頃、アメリカ野球の歴史を変える大きな出来事が起こります。
ジャッキー・ロビンソンという選手が、1945年8月23日ドジャース傘下のAAA(トリプルエー)級(メジャーの一歩手前、日本で言う2軍のようなものです)モントリオール・ロイヤルズへ入団します。
ジャッキー・ロビンソンは、アメリカのメジャーリーグが、アメリカンリーグとナショナルリーグの2リーグ制になって以降初めてのアフリカ系アメリカ人選手なんです。
1945年と言えば、第二次世界大戦直後の話です。マーチン・ルーサー・キング牧師などが活躍する公民権運動が1950年代から1960年代ですから、人種差別がとても激しかった時代です。
メジャーリーグのオーナー会議ではドジャースを除く全15球団(現在は30球団あります)がロビンソンのメジャーでのプレーに反対していたそうです。チーム内でも一緒にプレーしたくないと移籍する選手もいたくらいの時代です。
そんな中、ジャッキー・ロビンソンのメジャーデビューの後押しをしたのが、当時のブルックリン・ドジャース監督のレオ・ドローチャーです。
レオ・ドローチャー監督は、「私は選手の肌が黄色であろうと黒であろうと構わない。私はこのチームの監督である。優秀な選手であれば使う。もし私に反対する者がいたら、チームを出て行ってほしい」と言ったそうです。
実は、この監督レオ・ドローチャーのお孫さんが、私の大学時代のルームメイトなのです。ダンといいます。
ある日、部屋で話をしていると唐突にダンが「おじいちゃんはメジャーリーグの監督だった」という話をしてきたのです。
当時ジャッキー・ロビンソンの話を知らなかった私はダンとその話はできませんでした。
人種差別に敢然と戦っていたおじいちゃんを持つダンもとても優しい心の持ち主でした。
寮内唯一の日本人である私に対して差別的なことは一切しませんでした。むしろ、いろいろと助けてくれました。
他部屋のアメリカ人が私に差別発言をしても、何と言ったか決して教えてくれませんでした。「差別的な発言は例え相手に教えてくれと言われても自分の口から言いたくないから」と言っていました。
汚い言葉は口にするのも嫌だったということでしょうか。本当に良いルームメイトに恵まれました。
現在、ジャッキー・ロビンソンがつけていた背番号42は全球団共通の永久欠番となっていて、アメリカではだれも背番号42をつけられません。
日本のプロ野球では永久欠番ではないので、日本に来る外国の選手は喜んで42番を選ぶみたいです。
実はジャッキー・ロビンソンを題材とした映画があります。『42 -世界を変えた男-』というタイトルなんですが、それを見てみると当時の時代背景などがわかります。
もちろん、ダンのおじいちゃんであるレオ・ドローチャー監督も出てきます。(あまり良い描き方ではないので、少し残念なんですが)
日本にいた頃は全く意識することがなかった差別という問題を考えざるを得なくなる環境に身を置いたことで私は変わりました。
それ以来、私はあらゆる差別の無い世界をどうやって作るべきか考え、その実現のために微力ながら戦っています(それ以外は代表イジリをしていますw)。
今回のように人種差別と戦ってきた先人たちを紹介することで少しでも社会が良い方向に進んでくれたらうれしいです。